「これは御伽婢子に見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交わりをなせし形にして、もとは剪燈新話のうちに牡丹灯記とてあり。」(“牡丹灯籠”より)
江戸時代に入ってから、日本文学に対する中国明朝の影響が著しく、“牡丹灯籠”もその影響を受けて成立した物語の一つである。“牡丹灯籠”の元々の原題は『剪燈新話』という書の中の“牡丹灯記”というもので、これを江戸時代前期に浅井了意が『剪燈新話句解』として翻訳し、牛込の旗本の話を絡ませたものが短編『伽婢子』であり、そこから取られたものがこの“牡丹灯籠”である。後に江戸時代末期から明治にかけて活躍した落語家三遊亭圓朝も中国の物語からヒントを得て怪談話を創作しており、“怪談牡丹灯籠”を書いており、ここに『剪燈新話』が『剪燈新話句解』から版を重ねて日本で出版されたことが分かる。なお、前述の『剪燈新話』は中国明朝(近世)に瞿佑によって成立したものであり、中国では1400年代に読み始められ、それが日本に伝わるのは1400~1500年代の戦国時代(中世)のことであり、さらに時間を必要としている。当時の中国には倭寇の来襲が繰り返されており、そのため「日本=海賊の国」というイメージが定着してしまったため、日本から中国への直接の交易は行われずに琉球経由で行われており、この『剪燈新話』もその影響で朝鮮を経由して日本に伝わったものである。こうして中国から伝わった伝奇小説(恐ろしいが、心に響く話)『剪燈新話』は日本で『剪燈新話句解』から始まり、“怪談牡丹灯籠”へと形を変えて広まっていったのだ。また、日本における怪談の成立には背景があり、お寺での「説教」から始まったとされる落語との関連性を切り離すことができない。仏教がまだ民衆の生活規範であった江戸時代に、因果と輪廻を軸に「正しい人の道」を説くものが怪談の始まりであったとされる。それが次第に幽霊噺・怪談噺としての性質を強く際立たせるようになり、独立した「怪談芸」として完成されたのは、前述の三遊亭圓朝の功績が大であるという。ここでは、主に明朝の『剪燈新話』と日本の“牡丹灯籠”、“怪談牡丹灯籠”を対比させて述べることとする。
「これは御伽婢子に見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交わりをなせし形にして、もとは剪燈新話のうちに牡丹灯記とてあり。」(“牡丹灯籠”より)
江戸時代に入ってから、日本文学に対する中国明朝の影響が著しく、“牡丹灯籠”もその影響を受けて成立した物語の一つである。“牡丹灯籠”の元々の原題は『剪燈新話』という書の中の“牡丹灯記”というもので、これを江戸時代前期に浅井了意が『剪燈新話句解』として翻訳し、牛込の旗本の話を絡ませたものが短編『伽婢子』であり、そこから取られたものがこの“牡丹灯籠”である。後に江戸時代末期から明治にかけて活躍した落語家三遊亭圓朝も中国の物語からヒントを得て怪談話を創作しており、“怪談牡丹灯籠”を書いており、ここに『剪燈新話』が『剪燈新話句解』から版を重ねて日本で出版されたことが分かる。なお、前述の『剪燈新話』は中国明朝(近世)に瞿佑によって成立したものであり、中国では1400年代に読み始められ、それが日本に伝わるのは1400~1500年代の戦国時代(中世)のことであり、さらに時間を必要としている。当時の中国には倭寇の来襲が繰り返されており、そのため「日...