第10章 中国 <社会主義市場経済の実像>
第一節 中華人民共和国の50年
第二節 市場移行はどこまで進んだか
第三節 三つの課題
第四節 中国型市場経済システムの模索
第一節 中華人民共和国の50年
1 経済発展の概要
1949年の中華人民共和国建国から半世紀、この50年間で中国はどのような経路を通じ、何を成し遂げたのだろうか。中長期的に見れば、中国の経済発展はそれなりに順調に進んできたと言える。しかし、発展の道のりは決して平坦なものではなかった。この50年間に大きな変動が何度も見られるのである。
第一の変動:58年、毛沢東による大躍進運動の失敗を契機とした落ち込みによる後退。
第二の変動:67年~68年、これまた毛沢東が発動したプロレタリア文化大革命と呼ばれる政治運動での後退。
第三の変動:76年九月、毛沢東の死を前後する時期の政治不安定による後退。
第四の変動:88年~89年、インフレ対策として経済引き締め政策が採られ、経済不況の中で天安門事件が起きた。こうした政治不安定を嫌った外国直接投資の落ち込みによる後退。
これら経済の落ち込みは、いずれも経済政策の失敗というよりも、むしろ政治的要因による混乱が生み出したものであった。78年の鄧小平による改革・開放政策によって市場経、済化が進み自動調整メカニズムが働き、政治の経済に与える影響も徐々に少なくなった。このため、経済変動も小幅となり、成長が持続する期間も長くなったのである。とはいえ、天安門事件に象徴されるように、共産党を一党独裁とする政治システムはこの50年間不変であり、政治が経済に影響する要素が払拭されたわけではない。
2 集権的社会主義の30年
日中十五年戦争とそれに続く内戦の中で疲弊した経済の建て直しに成功した共産党政権は、厳しい国際情勢の中で、当時、理想の経済システムとして考えられていた社会主義への移行を急いだ。
集権的社会主義の柱の一つは、工農業の「社会主義改造」によるミクロ経済メカニズムの確立である。二つ目は、計画的資源配分を特徴とする第一次五カ年計画(1953~57年)の実施である。
こうして、58年5月に毛沢東によって大躍進が発動され社会主義の総路線が打ち出された。しかし大衆の熱狂に支えられた大躍進運動ではあったが、その結果は惨憺たるものであった。農業の大凶作、基本建設の過熱は計画統制を完全に破壊したのである。
こうした状況下の下で、政府は61年から経済調整政策の実施を余儀なくされた。結果、国民経済の混乱は収まり、生産は次第に回復していった。
ところが毛沢東は、経済調整政策を「資本主義の復活」と捉え、「紅衛兵」を利用したプロレタリア文化大革命と呼ばれる政治運動を起こした。この政治的混乱は経済にも影響を与え、多大な犠牲を払った。
3 改革・開放の20年
改革・開放の時代は農村から始まった。農民たちが政府の承認なしに実施した農作業の請負生産が瞬く間に全国に広がったことから郷村政府が復活したのである。これは農業参加への積極性向上に繋がり、並行して行われた農作物政府買い付け価格上昇効果とあいまって、農業所得の急上昇をもたらした。さらに重要な点は、これら農民自ら非農業領域に進出したことである。郷鎮企業の発展がそれである。
農村改革後の政府は、84年から改革の重点を都市に移した。この改革は「放権譲利」型と呼ばれ、それまで政府が握っていたマクロ経済管理を地方政府・企業へと下放し、利益を譲るものであった。また金融財政政策の面でも、所得税納付方式「利
第10章 中国 <社会主義市場経済の実像>
第一節 中華人民共和国の50年
第二節 市場移行はどこまで進んだか
第三節 三つの課題
第四節 中国型市場経済システムの模索
第一節 中華人民共和国の50年
1 経済発展の概要
1949年の中華人民共和国建国から半世紀、この50年間で中国はどのような経路を通じ、何を成し遂げたのだろうか。中長期的に見れば、中国の経済発展はそれなりに順調に進んできたと言える。しかし、発展の道のりは決して平坦なものではなかった。この50年間に大きな変動が何度も見られるのである。
第一の変動:58年、毛沢東による大躍進運動の失敗を契機とした落ち込みによる後退。
第二の変動:67年~68年、これまた毛沢東が発動したプロレタリア文化大革命と呼ばれる政治運動での後退。
第三の変動:76年九月、毛沢東の死を前後する時期の政治不安定による後退。
第四の変動:88年~89年、インフレ対策として経済引き締め政策が採られ、経済不況の中で天安門事件が起きた。こうした政治不安定を嫌った外国直接投資の落ち込みによる後退。
これら経済の落ち込みは、いずれも経済政策...