『中国社会を理解するキーポイントの一つに儒教がある。中国の歴代の王朝は儒教をどのように取り扱ってきたのか、具体的事例をふまえて述べなさい』
中国の王朝において儒教が与えた非常に影響は大きいと考えられる。儒家の創始者である孔子は、実力主義が横行し、身分制秩序が崩壊しつつあった周末に魯の国に生まれた。周的な礼の秩序により混乱した社会を周初に復帰させることを目的として、徳治主義を唱えた。人間の愛情(仁)がもっとも強いのは家族愛で、その心を推し広げれば天下は平和になるという政治思想のもとで儒教が生まれた。
孔子の死後、戦国時代に入り孟子が儒家の教えを広めることとなる。孟子は人の性の本質は善であるとする性善説を唱え、有徳者の政治こそ王道政治であるとし、「徳」のない者を打倒して有徳者に交代させることは天意にかなうものとする易姓革命を主張した。
その一方、戦国末には荀子が孟子の性善説に反対し、人間の本性は利欲を求めるものであるとする性悪説を主張する。この悪を規制し善に導くには先賢の設けた「礼」によるより他に方法はないと主張した。この礼による規制を一歩強めて、法により規制すると考えるなら、そのまま法家思想となる。法家思想が儒家の徳治主義を現実にそぐわないものと批判し、信賞必罰の法治主義を主張する。しかし、現に法家を大成した韓非、秦の宰相に李斯がともに荀子の弟子であったことからも、これを物語っている。この中国の法家の理念も儒家に根ざしている点は注目すべきである。
その後、秦朝では始皇帝と宰相の李斯のもと、法家理念の下に国家運営が行われる。有名な思想・学問の統制策である焚書坑儒が行われ、儒学者らが秦朝を批判し、始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難し逃亡したとして、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし、虐殺した。しかし、これは漢代以降の儒家が秦朝を批判するために述べたものであり、また、始皇帝の私的な感情からの暴挙であるとも言われている。
漢の初期になると、無為自然を掲げる老荘思想が広がっていく。この老荘の学(道家)は一切人為的な制度として否認し、天地の根本理法の道にまかせていけば、平和な理想社会生まれると説く。
景帝のころ国家の仕組みが固まるにつれて、儒学を学ぶものが多くなってくる。武帝の時代になると、董仲舒の進言から儒学精神のもとに国家運営が行われ、五経博士が置かれ、儒学が政府公認の学問として取り扱われることとなる。また、この時代の儒学の特徴は、官学化した儒学が皇帝の尊厳化の道具となり、儒学各派は競ってこの目的のために奉仕するようになった。即ち、儒学の形式主義化である。次に、学問の世界が儒学に統一され、他の学派も吸収して変質せざるを得なくなった。儒教の多様化である。そして、訓詁学の発達で、訓詁学とは儒学の経典の一字一句の意味を確定することである。
その後、後漢王朝の衰退とともに儒学の権威は衰え、乱世の中では、儒学のようにいかに天下を治めるかよりも、自己保全かつ自己向上のほうに課題が移り、老荘の思想を加味した儒家の解釈が生まれてくる。
また、この魏晋南北朝時代は、仏教が発展した時期でもある。北族の君主は、自民族より文化的に優れた漢人統治のため、それに匹敵する文化人の政治顧問に西域僧を登用し、政治に関与してもらう代償に、教団の組織や布教を求め、それを許可し、保護したためである。混乱期であったことも非常な勢いで発展した大きな理由である。
また、道教の成立もこの頃である。無為自然の法則が、戦国末の神仙思想の貴族社会に広まり、宗教的な体系を整えていった。そして、この
『中国社会を理解するキーポイントの一つに儒教がある。中国の歴代の王朝は儒教をどのように取り扱ってきたのか、具体的事例をふまえて述べなさい』
中国の王朝において儒教が与えた非常に影響は大きいと考えられる。儒家の創始者である孔子は、実力主義が横行し、身分制秩序が崩壊しつつあった周末に魯の国に生まれた。周的な礼の秩序により混乱した社会を周初に復帰させることを目的として、徳治主義を唱えた。人間の愛情(仁)がもっとも強いのは家族愛で、その心を推し広げれば天下は平和になるという政治思想のもとで儒教が生まれた。
孔子の死後、戦国時代に入り孟子が儒家の教えを広めることとなる。孟子は人の性の本質は善であるとする性善説を唱え、有徳者の政治こそ王道政治であるとし、「徳」のない者を打倒して有徳者に交代させることは天意にかなうものとする易姓革命を主張した。
その一方、戦国末には荀子が孟子の性善説に反対し、人間の本性は利欲を求めるものであるとする性悪説を主張する。この悪を規制し善に導くには先賢の設けた「礼」によるより他に方法はないと主張した。この礼による規制を一歩強めて、法により規制すると考えるなら、そのまま法家...