『洋務運動・変法運動・革命運動の特徴および各運動の相違をふまえ、各運動が中国の近代化のなかでどのような役割を果たしたのかについて、述べなさい。』
洋務運動は清朝の封建的な支配を維持し、伝統的な政治・社会体制を守りつつ、西洋の技術・武器を用いて近代工業化を図ろうとする目的であった。それゆえに、洋務運動の思想は中体西用論と呼ばれる。
洋務運動は、近代的な兵器・艦船およびその造船技術の導入がはじまりであった。また、外国との交流や技術の導入にあたり、外国語に習熟した人や技術者・将校を養成するための様式の学校も設立された。列強による侵略が激しくなる中で、軍事力の一層の強化に迫られ、それに関連する運輸・通信・鉱山などの企業を官督商弁(民間資本を導入し、それを政府が監督する)や官商合弁(民間と政府の共同経営)といった形で設立するなどした。
軍事工業以外は官督商弁や官商合弁であったとはいっても、実際は清朝の封建的な支配を維持することが目的である以上、政府・官僚が支配し、営業独占権や免税特権を有するなど、民間資本による、いわゆる商弁企業の進出と発展は抑えこまれた。
洋務運動は近代工業化とはいうものの、軍事中心の色合いが強く、それ自身大官僚による搾取の道具となったため、後の軍閥を生み出す結果となった。また、保守的な中国の伝統、洋務官僚の蓄財や対立、列強の圧力などのため真の富国強兵を実現するには至らなかった。それは日清戦争の敗北が物語っている。ただし、西洋の技術的な面のみ取り込んで旧弊な政治制度・軍制は守ろうとし、合理主義などの西洋の近代思想を取り込むことに失敗したため、変法運動が効果を得ることができなかったとの評価が与えられているが、例えば、製鉄所や鉱山、鉄道の整備など、後代につながる成果を残しているものも多い。
一方、このような列強からの侵略に対抗するには、清朝の封建的な体制を維持して進めるのには無理があるとの考えも生まれてくる。崩壊しつつある専制体制を立憲君主制に改め、富国強兵を行うことが近代国家として生きる道であるとの、いわゆる変法運動の考えである。変法派は議会制度の導入、民間の商工業や農業の保護・育成などを主張した。
時の皇帝の光緒帝は、変法派の康有為の上書にはじまった変法の大綱をもとに、保守派の総帥の恭親王奕訢が亡くなったこともあり、変法の断行に踏み切った。日本の明治維新をモデルとして、皇帝みずから改革を主導し、人材を登用し、民意を政局に反映させ、新設の制度局を中心に政治制度の全面的改革を進めるのである。ここに戊戌の新政がスタートする。しかし、満州貴族を中心とする保守派や洋務派は光緒帝の養母の西太后を擁し、この新政を認めようとせず、反撃の機会をうかがうこととなる。光緒帝が保守派の排斥に乗り出すと、西太后は袁世凱らの武力を背景として、クーデターを決行して光緒帝を幽閉し、みずから訓政と称し政権を掌握する。これにより、清朝の立憲君主制への移行をめざした戊戌の新政は、100日余りで失敗に終わってしまった。戊戌の新政は、短命な改革ではあったが、実行されなかった各種改革案も、クーデターを引き起こした西太后たちによって、再度取り上げられている。また、この改革の失敗は、日本に留学している若者たちに大きな心理的影響を与え、さらに義和団事変で清朝が見せた醜態は、政権交代の必要性を強く感じさせるに至った。こうした中、あくまで清朝を封建的な体制を維持しつつ、中国を危機から救おうとする勢力もあったが、一方では孫文・黄興・唐才常・宋教仁らは清朝が既に政権担当能力を失っているものと
『洋務運動・変法運動・革命運動の特徴および各運動の相違をふまえ、各運動が中国の近代化のなかでどのような役割を果たしたのかについて、述べなさい。』
洋務運動は清朝の封建的な支配を維持し、伝統的な政治・社会体制を守りつつ、西洋の技術・武器を用いて近代工業化を図ろうとする目的であった。それゆえに、洋務運動の思想は中体西用論と呼ばれる。
洋務運動は、近代的な兵器・艦船およびその造船技術の導入がはじまりであった。また、外国との交流や技術の導入にあたり、外国語に習熟した人や技術者・将校を養成するための様式の学校も設立された。列強による侵略が激しくなる中で、軍事力の一層の強化に迫られ、それに関連する運輸・通信・鉱山などの企業を官督商弁(民間資本を導入し、それを政府が監督する)や官商合弁(民間と政府の共同経営)といった形で設立するなどした。
軍事工業以外は官督商弁や官商合弁であったとはいっても、実際は清朝の封建的な支配を維持することが目的である以上、政府・官僚が支配し、営業独占権や免税特権を有するなど、民間資本による、いわゆる商弁企業の進出と発展は抑えこまれた。
洋務運動は近代工業化とはいうものの、...