表現の自由は優越を占め、その制約は「二重の基準論」において厳格な審査に服するというのが学説上の通説である。しかしまた、表現内容に関する規制と、表現方法に関する規制とを区別し、後者は前者にくらべて緩やかな違憲審査基準(中間審査)が妥当するという考え方をとっている。
しかしながら、私は内容中立的規制にも厳格な審査基準が適用されるべきであると考える。二分論は、表現の時、場所、方法ないし表現手段の意義を軽視していないだろうか。人が何かを表現するとき、それをどのような形で表現するかは、非常に重要なことであり、その表現行為を通してしか、われわれは表現内容を表出することができない。両者は不可分の関係にあり、その媒体としての「時・場所・方法・手段」について制限されるということと、内容を制限されるということを区別して論じることはおよそ無意味であり、現実的ではないと考える。憲法21条の保障する「表現の自由」には、表現の内容だけでなく、表現行為をも含むものと解するのである。にもかかわらず、この内容中立規制というマジックワードの範疇にて処理される「表現」は、厳格な審査基準の保護を受けることなく、切り捨てられてもよいということになってしまう。規制する側にとっては、特定の表現内容を抑圧するための合法的な手段として機能させることも可能なのである。
芦辺は、二分論の主唱者として、内容中立的規制の審査基準としてLRAの基準を挙げている。「立法目的を達成できるほかのより制限的でない手段があればそれによるべし」というものである。これによれば、立看板の一斉禁止は、他のより制限的な手段によって目的(美観風致の維持、公衆に対する危険の防止)を達成しうると考えられるので、当該法律は違憲であるといえるであろう。
「立看板の規制:立看板を特定の公道にたてることを禁止する条例の可否について、論ぜよ」
司試シ 56
表現の自由は優越を占め、その制約は「二重の基準論」において厳格な審査に服するというのが学説上の通説である。しかしまた、表現内容に関する規制と、表現方法に関する規制とを区別し、後者は前者にくらべて緩やかな違憲審査基準(中間審査)が妥当するという考え方をとっている。
しかしながら、私は内容中立的規制にも厳格な審査基準が適用されるべきであると考える。二分論は、表現の時、場所、方法ないし表現手段の意義を軽視していないだろうか。人が何かを表現するとき、それをどのような形で表現するかは、非常に重要な...