健康・スポーツ理論
「柔道について」
農学部 生物資源学科 *年*組*番
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柔道を選択した理由
私は高校のときに柔道をしていました。しかしその時には試合に勝つということにこだわり、柔道の意味や歴史についての知識は、ほぼありませんでした。柔道とは日本で生まれたスポーツで今でも大会などでは日本人が優勝するなど、日本を代表するスポーツの一つだと思っています。そのスポーツに携わっていた私が柔道について知らないのはおかしいのではないかと思い、この健康スポーツ・理論のレポートの課題を良い機会として柔道を選択しました。
柔道の歴史を誕生から変遷まで
今日よく私たちが『柔道』と話し、一般に行われているのは、講道館柔道である。そして講道館柔道とは嘉納治五郎師範によって作られたが、当初は講道館柔道ではなく柔道であった。
嘉納師範は、明治維新の欧化主義時代の風潮によって世人がまったく顧みることのなかった柔術諸流を修め、さまざまな流派を学ぶことによって、柔術の修練が心身の発達にいかに大きな効果をもたらすかということを体験し、これを教育的見地から検討するとともに術技の多種多様を、理論と実際に照らして集約し「術」の小乗から、「道」の大乗へ、「戦技」から「体育」へと大成することによって名称を「講道館柔道」と改めた
そしてこの講道館柔道の誕生とはその時代の社会情勢が大きく関わっている。嘉納師範は1860年に兵庫県に生まれたが、1871年に東京に移り住んでいる。この時代はこの時代は日本歴史の一大転換期にあり徳川幕府が崩壊し、政治は天皇の親政に復した。そして旧来の制度文物はこれを破棄し、欧米先進国を模倣する風潮が一世を風靡した。武士は刀を持つことを禁止され、伝来の武術も衰えた。そんな時代の中嘉納師範は柔術を習い始めた。きっかけに深い理由はなく、負けず嫌いな性格であったが、体は大きくなかった。なので、大きな仲間には圧迫されてしまう。どうすれば強くなれるのかと考え、柔術という武術があることを知り柔術を習ったのが始まりである。その後も多くの柔術を体得していき、柔術について大きな自覚を体得するに至った。
かくして1882年嘉納治五郎は柔術から今日の柔道を生み出したのである。なぜ柔道が「術」ではなく、「道」という字を使ったのかは、柔道とはただ単に「術」を教えるのではなく、鍛錬の中で「道」を教えるからである。
1882年に無事講道館が設立されたのだが、このときの道場の広さは12畳しかなく、門徒は9人であった。
その後、講道館は数々の困難を克服して発展していった。なぜわずか12畳、門徒9人の小さい講道館が発展していったのか、簡単にいえば、勝負の実力においても他流の柔術を制圧してしまったことである。この頃(1886)は社会も落ち着いてきて、柔術もわずかに復興してきていた。警察はその職業柄剣道、柔術に関心を持っていたが、柔術では当時強豪であった戸塚彦助の門下に俊英を多く募った。当時講道館柔道に対して、古い柔術家仲間は柔道の理論については敬服していたが、実力に対しては疑問をもち、軽蔑しているものさえ居た。これは自然に講道館と戸塚門下とのライバル意識となり、警視総監によって1885年に講道館流と柔術の一大決戦が行われることになった。この一戦は講道館柔道の今後の行方を決する大事な一戦であり、もし負けたなら嘉納師範の説く柔道は高遠な理想は説くが実際の実力はないということになり、柔道の発展を阻害することになったであろう。この試合は両派ともに約14~15人ずつの試合であったが勝負の結果2、3の引き分け
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「柔道について」
農学部 生物資源学科 *年*組*番
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柔道を選択した理由
私は高校のときに柔道をしていました。しかしその時には試合に勝つということにこだわり、柔道の意味や歴史についての知識は、ほぼありませんでした。柔道とは日本で生まれたスポーツで今でも大会などでは日本人が優勝するなど、日本を代表するスポーツの一つだと思っています。そのスポーツに携わっていた私が柔道について知らないのはおかしいのではないかと思い、この健康スポーツ・理論のレポートの課題を良い機会として柔道を選択しました。
柔道の歴史を誕生から変遷まで
今日よく私たちが『柔道』と話し、一般に行われているのは、講道館柔道である。そして講道館柔道とは嘉納治五郎師範によって作られたが、当初は講道館柔道ではなく柔道であった。
嘉納師範は、明治維新の欧化主義時代の風潮によって世人がまったく顧みることのなかった柔術諸流を修め、さまざまな流派を学ぶことによって、柔術の修練が心身の発達にいかに大きな効果をもたらすかということを体験し、これを教育的見地から検討するとともに術技の多種多様を、理論と実際に照らして集...