昭和42年に佐藤栄作の後継として総裁選に出馬し、日中国交回復の政策協定を結び福田湯に差をつけ勝ち総理に就任した。英雄待望論に基づく停滞気分を変えてくれるであろう期待から支持率62〜63パーセントでスタートした。キャリア官僚で秘密主義の佐藤内閣とは対照的に叩き上げ開放性を持つ角栄は「今太閤」と呼ばれる人気があった。当時角栄は54歳と若かった。彼は行動力・実行力がある慎重性を欠き、「コンピューター付ブルドーザー」と呼ばれ、政治力はあったが、金集めにまつわるスキャンダルが危うかった。総理就任後すぐに日中国交回復交渉に着手し、日中国交回復で田中人気が起こった。また明治発展から取り残されてきた裏日本を発展させるため日本全国鉄道、高速道路で結ぶ日本列島改造計画を行うために大型予算を作り公共投資を行ったが土地問題、つまり用地確保の為に買占めにより土地ブームが起こりインフレで不況になった。今の不良債権の発端である。さらに1973年の第4次中東戦争でアラブが石油戦略をして産油量を減らして輸出を削減したため、日本は使節団を派遣し日本の窮状を訴え、日本への削減は途中でやめられたが、オイルショックがおき、国民が生活苦となり、内閣の人気が落ちた。角栄は改造論をひっこめ福田や大蔵省にインフラ対策を任せた。福田いわく「狂乱物価」の状態であった。その後、角栄の金術を暴く論文が出され四面楚歌に陥り、辞職、後にロッキード事件で逮捕、刑事被告人として世を去った。彼は毀誉褒貶相半ばにして評価しにくい総理である。戦後政治のあり方、仕組み、手法を多く作ったものが、「田中型政治」であり、戦後政治を代表するシンボル的存在といえる反面金脈政治との批判も強い。田中型政治の特徴はまず、公共事業を取ってきて地域住民の期待に応え票を得る利益指導型政治が挙げられ、口利き政治の原型を作った。
田中角栄
昭和42年に佐藤栄作の後継として総裁選に出馬し、日中国交回復の政策協定を結び福田湯に差をつけ勝ち総理に就任した。英雄待望論に基づく停滞気分を変えてくれるであろう期待から支持率62~63パーセントでスタートした。キャリア官僚で秘密主義の佐藤内閣とは対照的に叩き上げ開放性を持つ角栄は「今太閤」と呼ばれる人気があった。当時角栄は54歳と若かった。彼は行動力・実行力がある慎重性を欠き、「コンピューター付ブルドーザー」と呼ばれ、政治力はあったが、金集めにまつわるスキャンダルが危うかった。総理就任後すぐに日中国交回復交渉に着手し、日中国交回復で田中人気が起こった。また明治発展から取り残されてきた裏日本を発展させるため日本全国鉄道、高速道路で結ぶ日本列島改造計画を行うために大型予算を作り公共投資を行ったが土地問題、つまり用地確保の為に買占めにより土地ブームが起こりインフレで不況になった。今の不良債権の発端である。さらに1973年の第4次中東戦争でアラブが石油戦略をして産油量を減らして輸出を削減したため、日本は使節団を派遣し日本の窮状を訴え、日本への削減は途中でやめられたが、オイルショックが...