会津の戊辰戦争について
戊辰戦争で佐幕派の東北諸藩が奥羽越列藩同盟を組み、官軍に対抗したことは有名である。
特に会津藩は居城・鶴ヶ城の落城まで徹底抗戦の姿勢を見せ、白虎隊や娘子隊等数々の悲劇を生んだ。
今尚美談として語られる会津の抵抗は、実際には膨大な犠牲を払った。何故この悲劇は防げなかったのであろうか。この抵抗は本当に正しかったのであろうか。
会津藩の立場
会津藩はいかにして徹底抗戦へと追い詰められたのであろうか。幕末に会津藩が立たされていた立場を分析したい。
まず、会津藩の佐幕傾向がいつ、どのような経緯で固まったのであろうか。
会津藩は奥州会津若松、鶴ヶ城を居城に持つ、公称23万石の大藩である。藩祖は2代将軍徳川秀忠の第4子、3代将軍家光の異母弟である保科正之である。保科正之は幼少の家綱の後見役を任せられるなど家光からの信頼厚く、200年の後に会津藩が幕府を支持する下地を作った人物とみられる。
寛文8年(1668)4月11日に保科正之が江戸屋敷にて首席家老・田中正玄に授けて会津藩の方針を示したという「家訓15カ条」 に因れば、
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず 若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず(第1条)
一、若し志をうしない 遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめば すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし(第15条)
とある。
大意は
他藩の方針に惑わされる事なく、一心に将軍家に仕えなさい。謀反の心を抱く者は保科正之の 子孫として認めないので、家来衆は決して従わないように。
第15条 遊びに夢中になり、贅沢をして、農民の居場所を奪う者が居れば、領地を安堵して下さる将軍家に対して申し訳が立たないので、主君に報告の上、蟄居を申し付けること。
ということであろうか。
将軍家への強い忠誠心が伺える家訓であるが、会津藩では毎年正月に儒臣に命じてこれを読ませ、その際君臣座を下りて拝聴したという説がある。
この家訓は幕末、松平容保の時代まで忠実に守られていたようで、先代松平容敬の養子となった容保にも、「容保の教育は主君容敬自らがあたり、家訓十五カ条が徹底的に教え込まれた」 そうである。
かくして、会津藩の幕府贔屓の下地は作られた。
しかし、篭城戦までの徹底抗戦の理由としては、これだけではあまりに動機付けが希薄すぎはしないか。
それは幕末、京都守護職としての会津藩の働きを見ることで解決しそうである。
会津藩主松平容保は、文久2年(1862)閏8月、幕府より京都守護職に任命される。役料は5万石、支度金は3万両であった。府の弱体化が進む中での京都守護職の拝命に対し、「薪を背負って火を防ぐようなもの」との会津藩家老西郷頼母らから反対の声が上がり、また容保自身も病中の身であった為、一度固辞している。
しかしこの時、薩摩藩が京都守護職に名乗りを上げていた。外様の薩摩藩をその要職に就ける訳にはゆかず、親藩の会津の兵力に期待する松平春嶽直々の頼みと家訓十五カ条に迫られて、 文久2年12月、容保は京都・黒谷金戒光明寺の本陣へと入った。
しかしやはり、この京都守護職の拝命が後々の徹底抗戦の引き金となったようである。
会津藩は京都守護職として京都市中の治安維持にあたる為、公用方を設置して「京坂の政局と情報収集に奔走、とくに尊攘派志士とその公卿たちの動向を入念に調べ 」させた。「足利三代梟首事件 」では会津藩公用方が犯人一味に間者として潜り込
会津の戊辰戦争について
戊辰戦争で佐幕派の東北諸藩が奥羽越列藩同盟を組み、官軍に対抗したことは有名である。
特に会津藩は居城・鶴ヶ城の落城まで徹底抗戦の姿勢を見せ、白虎隊や娘子隊等数々の悲劇を生んだ。
今尚美談として語られる会津の抵抗は、実際には膨大な犠牲を払った。何故この悲劇は防げなかったのであろうか。この抵抗は本当に正しかったのであろうか。
会津藩の立場
会津藩はいかにして徹底抗戦へと追い詰められたのであろうか。幕末に会津藩が立たされていた立場を分析したい。
まず、会津藩の佐幕傾向がいつ、どのような経緯で固まったのであろうか。
会津藩は奥州会津若松、鶴ヶ城を居城に持つ、公称23万石の大藩である。藩祖は2代将軍徳川秀忠の第4子、3代将軍家光の異母弟である保科正之である。保科正之は幼少の家綱の後見役を任せられるなど家光からの信頼厚く、200年の後に会津藩が幕府を支持する下地を作った人物とみられる。
寛文8年(1668)4月11日に保科正之が江戸屋敷にて首席家老・田中正玄に授けて会津藩の方針を示したという「家訓15カ条」 に因れば、
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自...