【過去問2014】
2014年度、明星大学 教育学部 通信課程において、科目終了試験に出題された問題の一覧、およびその回答例、ヒント集です。2014年4月~2015年2月の間に行われた科目終了試験において、全国(すべての試験会場)の試験問題が網羅されております。(問題数が膨大でないのは、出るパターンが決まっているからです。本資料以外の問題は2014年度は出題されておりません)
2014年度の試験問題は2013年度の試験問題と重複する部分が多かったため、2015年度以降の科目終了試験においても、2014年度の試験問題は役に立つかと思います。
全国の明星通信生の方のご協力により本資料を作る事ができました。ここでお礼を申し上げるとともに、これから試験を受ける皆様のお役にたてれば幸いです。
また、試験対策だけでなく、レポート作成の際にも、記載させていただいている回答例、ヒント集はお役に立つかと思います。レポート作成の前にダウンロードすると、レポート作成作業がはかどると思います。
→【過去問】と【合格レポート】 まとめブログ : http://ameblo.jp/meiseitarou/
・メタ倫理学とは何か論じなさい。<2015年4月/2014年10月>出題実績あり!
倫理学という学問は、最近では大きく分けて三つの部門からなると
言われている。
(1)規範倫理学
(2)応用倫理学
(3)メタ倫理学
の三部門である。
メタ倫理学は哲学の他領域の発展に大きく依存している分野である。
もともと20世紀の初頭に、イギリスの哲学者であるバートランド・ラッセルや
ジョージ・エドワード・ムーアが、
「『善い』とか『正しい』っていったいどういうことなんだろう?」と言い出してから、
具体的な倫理問題よりもまず、倫理にかかわる概念や言語を分析しなくてはいけないという
流れが始まったことがきっかけである。
「Ms. A is tall」と「Ms. A is good」と非常に似通った文章を例に考えてみましょう。
「tall」の場合、Aさんを見れば本当に「背が高い」のかすぐにわかります。
でも「good」の場合は、Aさんが本当に「善い」のかどうか、どうやって確かめらたらよいのだろうか。
ムーア以前は「A is tall」でも「A is good」でも、「背が高い」「善い」という性質は
「現実の世界」つまり対象の側にあって、それを「記述している」という発想が非常に強くあった。
たとえば、Aさんが善い人だというのは、周りの人を快い気持にさせるということだ、というような感じである。
それに対してムーアは「道徳的な性質は自然科学で記述されるような世界にはない。
善悪を快楽や苦痛といった自然的なものに還元することは大きな誤りだ」と説いた。
これは「自然主義的誤謬」ということである。
彼は善いという性質が現実の世界にあることは認めたが、
それは直観によってしか把握できないと考えたのである。
しかしムーアもやはり「言語は世界を記述するために用いられる」という発想にたっていた。
例えば「このコーヒーは美味しい」というセリフは、「美味しさ」というコーヒーの性質を
表す言葉なのかもしれないがコーヒーを飲んで美味しいと感じている
人の態度や感情を表明しているのかもしれない。「Ms. A is good」もそうである。
「私はAさんを『善い』と思っている」という称賛の態度の表明とも取れる。
このように言葉にはもっとたくさんの使用法があるだろうという話が20世紀の前半からでてくる。
メタ倫理学はその影響を強く受けている。「あなたは約束を守るべきだ」
「あなたは嘘をつくべきではない」と言ったとき、それは世界の何かを記述するというよりは、
話者の「態度」を表明している。私たちが使う「道徳語」は、
いったいどういうかたちで使われているのか。世界には私たちが道徳を評価するための
基準があるのだろうか。そういう研究をメタ倫理学では行っている。
・ロールズの正義論の利点と難点について論じなさい。<2015年4月/2014年10月>出題実績あり!
ロールズは公正な社会をいかにつくるか考えるため、「正義」という概念を福祉に適用した。
ロールズの正義論を要約すると、
第一原理「可能な限り、自由は平等にすべての人に認める」
第二原理「最も惨めな人のためを図って、ある程度の平等を実現し、極端な不平等は改める」
である。
このロールズの考えによって、社会主義や社会民主主義ではない政治哲学によって、
福祉国家を正当化できることになった。
しかし我々日本人の正義感とロールズの正義感は多少違いがある。
日本語で正義というとふつうは「倫理的な正義」を考える。
日本での正義は「徳」や「善」を最も重視する。
ところが、ロールズのいう正義は、「合意できる正義」であり、
皆が理性的に考えて、正しいと思うことである。
だからここには、超越的・倫理的な意味合いの「ならぬものは、ならぬのです」
が含まれていない。
ロールズの言う正義は、「公正としての正義」であり、「正」ないし「正しさ」である。
さらに言うと、「正しい(right)」は「権利(rights)」と密接不可分の関係にあり、
リベラリズムにおいては、権利がほとんど正義と同一視されている。
実際の人間は他の人にも関心があるから、普通の社会保障の議論では、
「貧しい人がこのままでは可哀想だし非人道的だから、貧者を助けよう」と考える。
ところがロールズの議論では、「無知のベール」がかかっている状態では
自分が裕福なのか貧しいのかがわからない。
つまり、一旦自分の現在の状況は判断の外に置いておいて思考すると、
おのずと自分が最悪な状況に置かれている場合を考えざるを得ないので、
最も貧しい人のためになる社会保障に合意するということである。
あくまでも他人に無関心な人間を前提とした定義である。
・昔ギリシアにギュゲスというひとりの羊飼いがいた。彼は自分の姿を消すことができる
不思議な指輪を手に入れ、その力でついには王権をわがものにした。「ギュゲスの指輪」
(プラトン「国家」第二巻三)と呼ばれるこの話を踏まえて、罰を受けることなく
不正を働くことができるときでも人は正義を守らねばならないのかどうか論じなさい。<2015年5月/2014年11月>出題実績あり!
ソクラテスの言葉として、プラトンが述べているのは、
「不正なことをすると、たとえおとがめをうけなくても、
性格が歪んでしまい、けっきょくは損をすることになる」
という答えである。
これはつまり、ある人にとって大切な事は、徳をもつことであり、
徳を損なうようなことは、いかにそれが利益をもたらすように見えても、
結局は、その人にとって、本当の利益にはならないのだという事である。
ソクラテスは、国家と魂についてこのように語っている。
つまり、 国家と個人を「理性(支配階級)」「気概(防衛階級)」
「欲求(商業階級)」 の三部分に分けて、それらが調和した状態を「正義」と呼び
このような調和がない腐った状態は、国家であれ個人であれ、
生きるにあたいしない。(第3巻、第4巻)
これは要するに、それぞれがその階級にふさわしい徳を
もっていることによって成し遂げられる「正義」の達成である。
支配階級では思慮、叡智の徳、防衛階級では勇気、忍耐の徳、
商業階級では節制の徳(儲けに走らない事)が必要であり、
国家は結局、その構成員の徳によって存続を可能とするという事である。
国家が混乱に陥ると、それは結局は、国民の利益にならないのである。
そのためには、国民は、その階級に必要な徳をもっていることが、
国家のためであると同時に、個人個人のためでもあるという事になる。
人間が罰を受けることなく不正を働くことができるときに
不正をやるのかという事に対して私が考えることは以下である。
本当に偉大な力を持った人が、不正を働く必要をどこに見出すのかという事である。
本当の力がないからこそ、こそこそと不正を働くのである。
真に例えば、王様になるのはもっと、堂々とした道を通っても
成れるのではないか。
いや、王様にならなくても、少なくとも、物を盗んだりするような
生き方を必要とはしなくなるのではないか。
本当の力がないからこそ犯す悪の道ではないのか。
本当に強い者には、悪を為す必要がなく、良いことをする事が楽しみとなるのではないか。
・アリストテレスの「エートス」とは何か論じなさい。<2015年5月/2014年11月>出題実績あり!
元来はギリシア語の ?htos の音写だが、今日では、ある文化の価値的な性格や精神構造を指すために用いられる。
アリストテレスは彼は徳を二分し、その1つを「エーティケー・アレテー」(性格的徳、倫理的徳などと訳される。
いま1つは「ディアノエーティケー・アレテー(知性的徳)」)と呼んだ。
この「エーティケー」は「エートス」の形容詞形である。
エートスには、慣習、習俗、人柄など、幅広い意味があるが、いずれも社会とのかかわりを予想している。
それがエトス(習慣)とつながりをもっていることを、アリストテレス自身が記している。
「エーティケー・アレテーはエトスから生れてくる。エトスという語をほんのすこし変化させたエートスという
名称をそれがもっているのもそこからくる。(『ニコマコス倫理学』)。
アリストテレスは道徳をけっして個人道徳の視点では捉えなかった。
彼が語るエトス(習慣)も個人的な性癖や無自覚な心的機制ではなく、
特定の社会的な行為の反復を意味していた。彼の道徳は、「単独の生」のための道徳ではなく、
「多くの人々とともに生きる」ための道徳だったからである。
「ギリシア語のエートスとは、
(1)住み慣れた地、住みか、
(2)慣習、(3)性格、気質、
などを意味する言葉である。だが、特に古代ギリシア人たちは、
音楽が人々の心に作用して高い徳性を育てる力をもつということに注目し、
この力をまた「音楽のエートス」と呼んで、単なる感覚的な影響力としての
「パトス」と区別した。プラトンやアリストテレスは、
この音楽のエートスの倫理的・教育的な作用をとりわけ重視し、
倫理的理想に向かって人の魂を教育する方法の中心に音楽を位置づけている。
・ベルクソンの倫理思想について論じなさい。<2015年4月/2014年10月>出題実績あり!
『二源泉』における「開いたもの」は、「閉じたもの」が社会からの圧力や知性の自己抑圧によって
駆動されているのとは異なり、英雄や神秘家といった人格が発する呼び声に答えるものとして発現するものであった。
つまり「開いたもの」は偉大な人格とそれへの憧憬を原動力とする。
この「人格」は、『時間』において「私たちは持続と一...
(2016年4月3日(日) 大阪,名古屋会場)
現役受験者からの最新情報です。本資料から傾向は変わっていないようです。
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