「横浜事件について」
日本が「もはや戦後では」なくなって久しいが、戦後60年経った今でも、依然として戦争が残した問題は山積している。中でも、靖国神社や従軍慰安婦の問題、原爆症の認定や、強制連行の保障などは戦争そのものが原因であるのに対し、今回挙げる横浜事件のように戦時下の体制が生み出した問題についても「決着」はついていない。
横浜事件と大河内光孝
横浜事件は太平洋戦争下の言論弾圧事件で、1942年から神奈川県特高警察が共産党再建謀議の容疑で雑誌編集者ら数十人を検挙し治安維持法で起訴、過酷な取調べで獄死者四名を出し、また大正デモクラシー以来リベラルな伝統をもつ『中央公論』『改造』を廃刊させた、というものである。被検挙者は10余りのグループに区分でき、特高警察は芋蔓式に検挙していった。しかしほとんどが特高警察によるでっちあげで、大河内光孝氏のように「どうしてだかわからないが警察につれてゆかれて、ひどい目にあった」という者も少なくなかったようである。資料によれば、大河内氏の場合、交換船による帰国者の中にスパイ、あるいは国際共産党の指令を受けている者がいるのではないかという「米国共産党員」として検挙された川田寿・定子夫妻の関係者として検挙されている。その他、被検挙者は「世界経済調査会」・「ソ連事情調査班」、「泊会議」あるいは「共産党再建準備会」、「改造社」、「政治経済研究会 昭和塾」、「中央公論」、「日本編集者会 日本出版社創立準備会」、「日本評論社」、「満鉄調査部」、「愛国政治同志会」のグループに区分される。
「泊会議」と木村亨
ところで、横浜事件の概要は間違って認識されていることが多いようだ。その基本的な例は、細川嘉六が『改造』に発表した「世界史の動向と日本」という論文が発端となって横浜事件が起こったというものであるが、中村智子女史によれば、横浜事件の発火点は、細川論文でも、最初に検挙された川田寿・定子夫妻でもなく、「泊会議」であるという。「泊会議」とはそもそも警察側が勝手に名づけたもので、実際は会議ではなくただの旅行なのだ。1942年7月5日に細川嘉六の『現代日本文明史』の第10巻『植民史』の出版記念として日ごろから親しい若い研究者や編集者たちを2泊3日の泊旅行に招待したのだ。出席者は中央公論社から木村亨、『改造』編集部から相川博と小野康人、東洋経済新報社の加藤政治、満鉄東京支社調査室の平館利雄、西沢富雄、西尾忠四郎の7人。その際西尾氏が持参したカメラで何枚も写真を写し、その中の一枚である紋左旅館で細川を囲むようにして写した記念撮影風の写真が特攻によって「泊温泉会議」の証拠写真とされた。「ソ連事情調査班」として逮捕された平館、西沢らの押収品の中にその写真があり、そこに写っていた人々を共産党再建の謀議を謀っていたとでっちあげ、逮捕したのである。
1915年生まれの木村亨氏は、この泊旅行当時27歳だった。中学時代から校長の不正に対して校長排斥ストを企て、横浜事件で検挙される前にも、36年に非合法の活動により治安維持法違反容疑で特高警察により逮捕・起訴猶予処分を受ける。早稲田大学を39年に卒業後、中央公論社入社、出版部に配属される。最初の企画として『支那問題辞典』を扱い、細川嘉六と知り合っている。横浜事件では43年5月26日早朝、神奈川県特高に検挙され、山手署に留置。柄沢六治警部補、佐藤兵衛巡査部長らによって拷問・虐待を受ける。中央公論は43年8月末付けで辞めさせられている。この時木村氏は会社が自分をクビにしたことに対して、「名誉なこと」とさえ思ったくら
「横浜事件について」
日本が「もはや戦後では」なくなって久しいが、戦後60年経った今でも、依然として戦争が残した問題は山積している。中でも、靖国神社や従軍慰安婦の問題、原爆症の認定や、強制連行の保障などは戦争そのものが原因であるのに対し、今回挙げる横浜事件のように戦時下の体制が生み出した問題についても「決着」はついていない。
横浜事件と大河内光孝
横浜事件は太平洋戦争下の言論弾圧事件で、1942年から神奈川県特高警察が共産党再建謀議の容疑で雑誌編集者ら数十人を検挙し治安維持法で起訴、過酷な取調べで獄死者四名を出し、また大正デモクラシー以来リベラルな伝統をもつ『中央公論』『改造』を廃刊させた、というものである。被検挙者は10余りのグループに区分でき、特高警察は芋蔓式に検挙していった。しかしほとんどが特高警察によるでっちあげで、大河内光孝氏のように「どうしてだかわからないが警察につれてゆかれて、ひどい目にあった」という者も少なくなかったようである。資料によれば、大河内氏の場合、交換船による帰国者の中にスパイ、あるいは国際共産党の指令を受けている者がいるのではないかという「米国共産党員」とし...