生きるという事は死ぬ事ではないだろうか。人間の死亡率は百パーセントである。それでは必ず人間は滅びてしまう、諸行無常という言葉を仏教的解釈に則って理解する事で、私達の現代社会で生きていくうえの心構えとする事は、死が遠ざかったと言われる現代において重要な事ではないか。そして死ぬ事から生命は始まるという輪廻転生思想を解釈し、命の繋がりという、個の命ではない存在に気付き、新しい命の見つめ方を模索する事で、近年軽んじられる傾向にある命の大切さを認識出来るのではないか。
輪廻転生とは、この世に生を受けたものは前世によって決定された運命であり、次々と引き継がれていく生命の事である。仏教から生まれた思想ではなく、紀元前六百年から三百年頃に、ヒンズー教のヴェーダ聖典という書物の中で解かれている。古代インド人の思想がこの様に形成された理由に、農耕民族である事が挙げられる。農民は春に種を蒔き、夏に作物が成長を遂げ、秋に刈り取り、冬に死んでしまう。しかし春になるとまた、植物は芽吹くのである。この自然の循環を長年観察する事で、輪廻転生の思想は養われたに違いない。植物と同じように、私達の生命は、肉体が滅んだ後に現世での全ての行為であるカルマの善悪によって、来世での運命が決定され、再び生まれ変わる。輪廻する世界は、天上、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の六つのであり、善のカルマが多いほど天井に向かう可能性は高くなる。この善因善果、悪因悪かの考えも、インドにおいて輪廻転生思想を支えてきた大きな理由である。
輪廻する世界の天上とは、一般的に私達が想像する世界とは異なり、未だ悟りを開く事が出来ない人間が回る世界の一つなのだ。そして天上界に生まれた人の死に際は、六世界のなかで最も辛いものとして描かれている。これはつまり、死という生命の終わりは、この輪廻転生のサイクルの最上界にいる人ですら悩ませるのだから、そのサイクルの中にいる限り全ての人間を悩ませる。私達の抱え続けている大きな苦しみの原因は諸行無常を受け入れる事が出来ないからだ、と述べているのではないか。
また、私達の生きる人世界にも三つの苦しみがあるとされている。もし人間界に苦しみが無かったら、何度生まれ変わっても人間になりたいと考えてしまう。それでは仏教の最終目標である解脱をまず人間が望まなくなる。そこで何とかしてこの世界から逃れたいと思わせる為に、ブッタは次の三つの教えを説いた。まず、人間世界は不浄であって清らかではない。第二に、この世界は四苦八苦と表される苦しみに満ち溢れている。そして第三に、この人間世界は全て無常であり、存在する現象は全て一時的なものである。ここでもまた諸行無常という単語が出てくる。
この両方の世界の苦しみの中に諸行無常という考え方が出てきた事は偶然ではない。
日本では古くから、いろは歌に代表されるような無常観を重視してきた。何故ここまで無常であることを意識するのか。それは私達の命は必ず終わるものであり、その終わりを知る事が恐怖であるからではないか。仏教ではこの無常を悟った後も、終わりを認識するからこそ快楽に耽り楽しみに夢中になってはいけないと解いている。また、人間が死ぬ時は一人であり、自分の運命をどうすることも出来ない姿をブッタは以下のように語っている。
彼らは死に捉えられてあの世に去ってゆくが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。見よ。見守っている親族がとめどなく悲嘆にくれているのに、人は一人ずつ、屠所に引かれる牛のように、連れ去られる。(注一)
私達は自分の死を避ける事はでき
生きるという事は死ぬ事ではないだろうか。人間の死亡率は百パーセントである。それでは必ず人間は滅びてしまう、諸行無常という言葉を仏教的解釈に則って理解する事で、私達の現代社会で生きていくうえの心構えとする事は、死が遠ざかったと言われる現代において重要な事ではないか。そして死ぬ事から生命は始まるという輪廻転生思想を解釈し、命の繋がりという、個の命ではない存在に気付き、新しい命の見つめ方を模索する事で、近年軽んじられる傾向にある命の大切さを認識出来るのではないか。
輪廻転生とは、この世に生を受けたものは前世によって決定された運命であり、次々と引き継がれていく生命の事である。仏教から生まれた思想ではなく、紀元前六百年から三百年頃に、ヒンズー教のヴェーダ聖典という書物の中で解かれている。古代インド人の思想がこの様に形成された理由に、農耕民族である事が挙げられる。農民は春に種を蒔き、夏に作物が成長を遂げ、秋に刈り取り、冬に死んでしまう。しかし春になるとまた、植物は芽吹くのである。この自然の循環を長年観察する事で、輪廻転生の思想は養われたに違いない。植物と同じように、私達の生命は、肉体が滅ん...