ジョン・ウェスレーの敬虔の修練から聖化にいたる過程
1.神人協力説について
・ウェスレー神学の本質としての<神のアクション−人間のアクション>の定式
→救いに置いて終始一貫して神が主導権を握るが、人間の側で神へと心を向けなければ、“聖霊は徐々に退き、我々を心の暗黒に置き去りにするであろう”
→→恵みは先行するが強要せず、人間は意志を働かせて恵みに従っていかなければ、救いの業は成立しない。
ウェスレーが人間の側のアクションを説く背景には神学的傾向だけではなく、 切実な牧会的配慮があった
→信仰者に残存する罪の性質(fomes peccati)・・・旧態に戻る傾向を持つ心(heart bent to backsliding)
→→恵みの賜物を用いず、罪に屈服すれば、義人以前の罪人の状態に戻る。信仰者として復帰するために、悔い改めて初めからやり直さなければならない。
2.敬虔の修練とは
・キリスト者の生活が修練(disciplne)によって形づくられる生活であると強調
不聖なもの、世俗との抗争であり、深刻な意味で内なる戦いでもある聖化の戦い。−−ウェスレーはルター同様、キリスト者の生活を自由と修練の二局面で捕らえていた。
→ウェスレアン修練のキーワード−−<戦いつつ、目を覚まして見張りつつ、祈りつつ>*多数の讃美歌 For Believers Fighting, Watching, Playing
→→信仰者は、内省を繰り返し、内なる罪を認識し、その度に悔い改めていくべき。
・キリスト者の修練の本質は自己否定である。
(*肉欲を従わせる苦行、自虐行為などの否定的概念ではない。)
−−“我々にとって神の意志こそが行動の唯一の基準であると確信して、敢えて生まれながらの堕落に放縦するように全的に傾いている”我々の意志を否定・拒否して神の意志を選びとることである。(説教#48「自己否定」)
→罪性との戦いとは、肉欲の中で信仰を堅持するという防御的な戦いだけでなく、神の意志を生活の中に具現化し、聖化に成長する
→→聖化に成長することは、努力と戦いなしに、服従と修練なしに達成できるものではない。聖霊に働いてもらうということは、たんなる罪性との闘いではなく、霊的な修練である。
神の恵みは戦いにあるキリスト者(militis christiani)を囲んでいる神の恵み
(1)義認の恵み
<敏感かつ静穏>(sensitivity and serenity)クリスチャンは内なる罪に敏感であると同時に、心の内側に静穏を保つことができる
→罪に陥り、旧態依然に戻ってしまった者でも、イエス・キリストに向き直って恵みを求めるならば、罪の赦しは繰り返し与えられる。
3.聖化の恵み
“キリストは罪が支配するところを支配することができない。−−しかし、罪と戦っている信仰者全ての中に、キリストはおり、住んでいる”
→戦いに本質的に必要なことは、難行苦行ではなく、内住のキリストに対してどれほど熱心に応えていくかである
→→勝利の秘訣は「恵みの手段」である
ウェスレーの恵みの手段の概念は国教会の伝統に則っている
神によって聖書に制定されている手段(instituted means)
−−祈り・聖書研究・説教・聖餐・断食・礼拝やその他の少人数の交わり
経験や思慮によって推薦されている手段(prudential means)
−−自己吟味・日記・黙想・霊的な書物を読むこと・自制的な規律/霊的な必要や状況に応じて変わるもの
*教会の歴史の中で培われてきた修練の型(form)を無視して、聖霊
ジョン・ウェスレーの敬虔の修練から聖化にいたる過程
1.神人協力説について
・ウェスレー神学の本質としての<神のアクション−人間のアクション>の定式
→救いに置いて終始一貫して神が主導権を握るが、人間の側で神へと心を向けなければ、“聖霊は徐々に退き、我々を心の暗黒に置き去りにするであろう”
→→恵みは先行するが強要せず、人間は意志を働かせて恵みに従っていかなければ、救いの業は成立しない。
ウェスレーが人間の側のアクションを説く背景には神学的傾向だけではなく、 切実な牧会的配慮があった
→信仰者に残存する罪の性質(fomes peccati)・・・旧態に戻る傾向を持つ心(heart bent to backsliding)
→→恵みの賜物を用いず、罪に屈服すれば、義人以前の罪人の状態に戻る。信仰者として復帰するために、悔い改めて初めからやり直さなければならない。
2.敬虔の修練とは
・キリスト者の生活が修練(disciplne)によって形づくられる生活であると強調
不聖なもの、世俗との抗争であり、深刻な意味で内なる戦いでもある聖化の戦い。−−ウェスレーはルター同様、キリスト者の生活...