第一章
これから砂穴に残るという「男」の選択は日常性への〈埋没〉か否かということについて論じていきたいと思う。私は「砂の女」を読了し、小泉浩一郎氏と福本良之氏の研究史をふまえた上で「男」の選択は日常性への埋没ではないと考える。
はじめに小泉浩一郎氏は研究史で「男」とった選択は日常性への埋没ではないと主張していると読み取れると思う。その根拠として小泉氏は、研究史中に以下のように述べている。
「男の『脱出』への希求は与えられた状況の矛盾を認識し、その矛盾をのりこえようと思考する限り依然として原理的な正当性を保ちえているのである。作者が遂行しつつあるのは、真の脱出のために遂行された逃避という否定的側面の剔出、分離手術なのである。」
対して福本良之氏の研究史では「男」の選択は日常性への埋没であると主張していると読み取れると思う。その根拠として福本氏は研究史中に以下のように述べている。「日常性が平凡でありふれていて顕在化しにくいために男が感じ得ないままに『砂の穴』の日常性に埋没したということにならないだろうか。」「男が無意識のうちに『砂の穴』の日常性に埋没したことを表していると考える。」
ここで小泉氏と福本氏をふまえて現時点での私の仮説を述べよう。
「砂の女」に相当の長い間閉じ込められてきた「男」は何回も脱出を試みた。そしてすべて失敗に終わったが、失敗しながらもあきらめずに何回も脱出を試みたということは脱出をしたいという気持ちが強く現れている証拠である。特に四回目の脱出作戦では塩あんこに捕まり死にそうになるなか部落の人に助けられるという恥辱を味わった。これに懲りてもう脱出を諦めるのかと思いきや砂穴に鴉を捕らえるための罠を仕掛けているではないか。これこそ小泉氏の言う「与えられた状況の矛盾を認識し、その矛盾をのりこえようと思考する」という行為に値するに違いない。したがって男が脱出を試みる限り埋没したとはいえないのである。
ここで福本氏は「日常性が平凡でありふれていて顕在化しにくいために男が感じ得ないままに『砂の穴』の日常性に埋没したということにならないだろうか。」と「男」の選択は日常性への埋没であると主張している。しかし、たとえ以前の「男」の生活が顕在化しにくいものであったとしても、男には帰属本能があるので「こんなところで、これまでのおれの生活が、中断されてたまるものか!」(p81)と叫んでいるのである。このように「男」が言っていることからわかるように、とても男が無意識のうちに埋没したとは思えないと考える。
第二章
第一節
これから私が分析・考察するために引用する場面は男が溜水装置を発見した場面である。
私がこの場面を選択した理由は、この溜水装置の発見こそが男が砂穴に残ることとなったきっかけであるからだ。またこの場面を分析することによって男の選択は日常性への埋没ではないと論証できると考えたからである。
「男」は四回目の脱出の失敗のあと、〈希望〉として鴉を捕らえるための罠を設置したのである。それが砂の毛管現象により地下の水分を吸い上げ、水を確保できるようになったのである。その結果「男」の変化は次のように記されている。
「彼は、砂の中から、水といっしょに、もう一人の自分をひろい出してきたのかもしれなかった。」(p162)
「いま、彼の手のなかの往復切符には、行き先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。それに考えてみれば、彼の心は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。話すとなれば、ここの部落のもの以
第一章
これから砂穴に残るという「男」の選択は日常性への〈埋没〉か否かということについて論じていきたいと思う。私は「砂の女」を読了し、小泉浩一郎氏と福本良之氏の研究史をふまえた上で「男」の選択は日常性への埋没ではないと考える。
はじめに小泉浩一郎氏は研究史で「男」とった選択は日常性への埋没ではないと主張していると読み取れると思う。その根拠として小泉氏は、研究史中に以下のように述べている。
「男の『脱出』への希求は与えられた状況の矛盾を認識し、その矛盾をのりこえようと思考する限り依然として原理的な正当性を保ちえているのである。作者が遂行しつつあるのは、真の脱出のために遂行された逃避という否定的側面の剔出、分離手術なのである。」
対して福本良之氏の研究史では「男」の選択は日常性への埋没であると主張していると読み取れると思う。その根拠として福本氏は研究史中に以下のように述べている。「日常性が平凡でありふれていて顕在化しにくいために男が感じ得ないままに『砂の穴』の日常性に埋没したということにならないだろうか。」「男が無意識のうちに『砂の穴』の日常性に埋没したことを表していると考える。」
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