「境界例」と「私とは…」(1)~自分探しの旅~
『あらゆる問いのはじめに「私」があり、 その限界に立ちはだかる存在もまた「私」に他ならない。』
という考えにおいて私にとって 自己言及の問題つまり「自分探しの旅」とその存在の構築はいわば永遠のテーマである。
しかしながら、一般的に 精神分析学、とりわけフロイト/ラカンの教えによれば、
人は「語る存在」であるがゆえに、癒やされない欠如を抱えている。
人は自らを語りつくす言葉をけっして手にすることはない。
人は他者の言葉のネットワークの中に「存在させられる」、それだけだ。 したがって「自分探し」など徒労に過ぎない。
としており、ここから、精神分析をはじめている。 またフロイトは
「人生というものは断念の術さえ身につければ結構楽しい」 とも語っている。
「私とは」=目標はおそらく永遠に先に引き延ばされ、その旅を終わらせるには
すなわちそれが想像的に(つまり擬似的に)解消されるか、
あるいは探す行為そのものを放棄する以外には終わりようがないのでしょう。
そしてその完結し得ない迷宮の歪みに自己を埋没させあるいは分裂させ見...