窓にみるヨーロッパの影響
簡単な本文の説明
窓から日本が受けたヨーロッパ文化の影響を述べていきたいと思う。日本の窓の変化の歴史を、大きく開国以前、明治時代、近代の三つに分けて述べていく。その中で、窓の役目を開放性と光の捉え方を中心に考慮していきたい。最後には現代の日本人の窓に対する考えの変化と実情を述べる
そもそも窓というものは、原来煙だしの役目を負っていた。しかし、季節、風土、社会環境などの影響を受けて、その役目、構造を変化させてきた。そして、日本の窓とヨーロッパの窓は建築の構造、用いられる材料からも根本的な違いが見られる。 『日本語の「まど」は「間戸」あるいは「間処」であるという。一方英語の窓「window」はwind+ow、すなわち「風の目」に原意があるとされる。』( 1 ) つまり、日本の建築は古くから木を用いており、その構造は柱をたてて上を梁でつなぎ、屋根を架けて内部空間を確保した開放的な構造になっている。そして、「まど」はヨーロッパのように風を通すことを役割とはせず、むしろ日本の「まど」は壁の一種としての役割を果たすことになる。『明障子を建てた「まど」は、壁面の穴ではなく、むしろ光る壁と感じられる。』( 1 )外と内を区切り、外部から内部を隠すことなどが、根本的な役割である。そして、開かれた時の「まど」は家のうちから、外の庭の景色を思う存分眺めることができるようになっており、庭と家の一体性を作り出している。閉ざされた「まど」は和紙で作り上げられた特徴を思う存分生かすように、外からの強い光を柔らかにし、内部に明と暗を作り出す(図 開放的な日本間と障子 )。一方でヨーロッパの建築はレンガや石などが建築材料のメインで、壁は分厚く重厚で丈夫な構造になっている。また、気密性が高く防犯に優れている。ゆえに、窓というものは景色を眺めるためではなく、弱点となる可能性があるので最小にして必要最低限に風通しを行うのが役目である。また、小さければ保温や保冷に優れて機能的である。しかし、小さな窓は暗い室内に光を導入しにくい。よって、教会の小さなステンドグラスの風景に見られるように、ヨーロッパの窓はその小さな面積から光を効率的に取り入れるように配置と設計を考慮している。ゆえに、ヨーロッパの窓はしばし高い位置にある。(図 ウィーンの聖パウロ教会 )。
このように、もともと違った環境にあったヨーロッパの窓と日本の「まど」は、その環境などの条件に合わせた方向に発展を続けてきた。二つの異文化が出会うのは明治時代の幕開けにより日本がヨーロッパ文化を積極的に取り入れる政策の一端に始まる。しかし、当時の時代背景から日本はヨーロッパ技術や文化への猛追の思いばかりで、ヨーロッパ建築を必然性に応じて取り入れた和洋折衷とは言いがたいものであった。『明治になって洋風建築の移入がきわめて積極的に行われてからである。開口部の形も大きく変わってくる。しかしそのほとんどが構造的必然性を持たず単に形態のみを模倣したものであった。アーチ窓はその典型的なものであり、木造建築であれば壁厚は組積造にたいしてきわめて薄く、窓のだきの寸法は小さくなって壁面と開口部の奥行を失ってしまう。また、地方の擬似洋館などでは、前出の花頭窓との不思議な混交も見られるようになる。その中で興味深いものは開明学校(愛媛県宇和町 ・明治15年)のように、外部はアーチ窓の形をしていて内部を見るとガラス戸の片引戸がついている。これはまさに和洋混交のすがたであるといえる。』( 2 ) (図 開明学校 )明治時代は、洋館が多く建てられたが、それは普段の生活のためというより外国人の技師や要人を迎えいれる用のものである。もしくは、公共の施設に近代化の印として表すために取り入れられた。つまり、ヨーロッパの影響はそれほど顕著なものではなく、一般の住宅としては、昔ながらの柱と梁の構造が主流であった。
日本の住宅の窓がヨーロッパの影響を受け、日本の風土に合わせた合理的な窓の取り入れ方をしたのは近代に入ってからである。 『近代に入って日本の住宅は椅子式住居の導入などにより洋風化がしだいに進む。つまり明治以来、直接的には欧米の住宅をモデルにした洋風住宅の導入が図られ、欧米人の住まう異人館や上流階級層の接客施設から西洋館が次第に広がっていった。やがて西洋館をモデルとして、我が国の住宅の改善を求める動きが大正時代の中ごろより始まり、椅子式を取り入れた居間や書斎、個室化した洋風寝室をもつ様々な文化住宅が表れてくる。そうした中で住宅の窓は、機能的な視点から、あるいは意匠的、様式的な要素として実に多彩な形が発案されていった。具体的にみると、ガラス窓が一般に普及し、その形式も一般的だった引き違い窓に加えて、欧米の住宅から移植された開き窓(ケースメントウインドウ)上下式窓、回転窓などが現れる。そしてカラフルな色ガラスやステンドグラスが洋風趣味のインテリアにおいて、特徴的な装飾的要素として用いられることも流行した。一方で、伝統的な和風の住宅を見直して、そこに椅子式の居間の導入や個室の確保など、合理的な改善を加えながら日本の風土に適する和風住宅の近代的な展開を図ろうとした建築家の活動もあった』( 3 ) この時代の住宅の窓はまさに、和洋折衷型の窓といえる。日本住宅の窓の特色が失われることなく、合理的にヨーロッパの風情が含まれている。藤井厚二の試み的な住宅がその代表的な例といえる。 『氏の研究は日本の気候に適した住宅の設備に着目し、四季の気候に対応する採光、換気、通風の最適状態を科学的に解き明かそうとした。そして椅子式を畳座敷を融合する居住様式を案出し、近代住宅としての合理的な計画性を有するとともに日本趣味の深い新しい住宅の創作に向かったのである。
藤井の研究と創作の瞠目すべき活動は、自ら京都大山崎の山麗に広大な土地を得て実験住宅と称した自邸を建て、数年の生活体験とともに、さらに改善を加えた新たな自邸を建てるという研究を繰り返したことだった。その研究的創作の結論として昭和二年に第五回の住宅として建てられた自邸が聴竹居と呼ばれたもので、五十二坪の平屋の母屋と閑室(立礼茶室)といわれる離れからなる住宅であった。
聴竹居にみられる特色は、近代化された和風表現であり、居間中心にして椅子式を導入した居室の構成にガラス窓と併用して紙障子や木格子、竹連子を活用して日本趣味を基調とした新しい住空間を作り上げたことにある。そして合理主義者の藤井は、一貫してメートル法による設計を行っており、この間取りもメートルグリッドに従って計画されていた。つまり建具や障子に見る特有に表現はメートル法によって割り出されたプロポーションから生まれたものだった。
後年の昭和十三年、京都市中において相当な規模をもつ邸宅である扇葉壮が建てられた。本邸はその年に早逝した藤井の遺作となったものであるが近代を代表する住宅作品とすて、また客間座敷として構成された一角は藤井独自の鋭敏な感性が生み出した近代数奇屋建築として注目されているものである。
そこに用いられる様々な窓は外部との関係を適切にコントロールするだけではなく、屋内にあって空間を隔てかつ透かせる装置としても活用される紙障子は外部のガラス戸、木格子と共用されることで外光を和らげつつ十分な光を室内に導入する。そしてさりげなくデザインされた組子の格子は藤井の鋭敏でかつ高雅な感性を映して、和風の伝統の形に通じながら実に新鮮でありモダンな表情を見せるものなのである。』( 4 )以上のように、この時代の窓は日本の障子を基本としながら、上手にヨーロッパの要素を取り入れたのである。ガラス窓が一部にはめ込まれた形は、太陽の光の存在を尊重しつつ、ガラス越しに見える外部でもって昔ながらの住宅にあった自然との調和を演出している。(図 近代の日本の障子 )
戦後、日本の住宅は日本型からヨーロッパ型を基調にしており大きく変化した。日本の窓は日本の風土によって築かれた伝統を残しつつも大部分は、ヨーロッパ型の住宅の影響を受けた窓になっている。構造上の大きな変化としていえるのは現在の日本の窓は壁に埋め込まれ、外部と内部を区別して、一体感を演出していた開放性が消えたことである。一方で外見や間取りがヨーロッパ的になっているが日本の住宅の基本は、木造であり壁は薄い構造が多い。それでも、小さな窓のほうにはしばし出窓が見受けられる。(図 日本の住宅 )これは、構造からみれば不自然なものであるが日本人は出窓によって作られた台に写真や植木鉢を飾り楽しむようになっている。構想だけを考慮しても様々な影響があるが、一番に大きいのは日本人の光に対する考え方を大きく変えたことである。本来日本の「まど」は太陽の移動によって濃淡を伴う無数の段階を演出していた。この、日本人の光に対する考えを谷崎潤一郎は著作「陰翳礼讃」の中で、『もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数奇を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光りと蔭との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。』( 5 )と記している。日本人は「まど」でもって、いわいる幽玄の世界や侘びさびを表現していた。しかし、ガラス窓の出現は一種の暗闇が支配していた空間に驚くほどの明るい光をもたらした。人々は明るい光を熱望するように、新しく家を建てるときは明るい間取りが良いといっても、明暗のある間取りが良いとは言わない。光の調節は蛍光灯の異様な明るさに求め、部屋全体を明るくすることが望...