始皇帝(正しくは秦王政)の十八男、少子胡亥は始皇18年(紀元前229年)に誕生した。始皇帝が趙を攻撃した年である。これも史記には記されていない。彼の名が初めて史記上に現れるのは、始皇37年(紀元前210年)の始皇帝最後の巡幸の折、「少子胡亥、愛せられる。慕ひて從はんと請ふ。上之を許す」の場面である。誕生からここに至るまでの胡亥の半生についてはまったく不明である。恐らくは他の公子たちと同じように宮中で教育を受け育てられたのだろう。また宦官の趙高は胡亥にのみ特別に刑法についての指導をしていたとされるが、これも特別なことではなく、全ての公子がそれぞれ官僚によって法律などの学問を教わっていたと考えるのが妥当である。
さて、五回目の巡幸に出発した始皇帝一行は、雲夢、会稽、之罘、平原津を過ぎて沙丘平台に到る。ここで始皇帝は病が悪化して没するが、丞相李斯、宦官趙高、そして胡亥によってその死は隠された。史記によれば、この際に三者によって、本来次期皇帝に指名されていた扶蘇を自害させ、胡亥を後継ぎとする「偽の勅書」がでっち上げられたとされる。最大の邪魔者であった長男の扶蘇とその部下蒙恬を排除した胡亥は、咸陽に帰ると始皇帝の死を発表し、二世皇帝として即位した。
始皇帝(正しくは秦王嬴政)の十八男、少子胡亥は始皇18年(紀元前229年)に誕生した。始皇帝が趙を攻撃した年である。これも史記には記されていない。彼の名が初めて史記上に現れるのは、始皇37年(紀元前210年)の始皇帝最後の巡幸の折、「少子胡亥、愛せられる。慕ひて從はんと請ふ。上之を許す」の場面である。誕生からここに至るまでの胡亥の半生についてはまったく不明である。恐らくは他の公子たちと同じように宮中で教育を受け育てられたのだろう。また宦官の趙高は胡亥にのみ特別に刑法についての指導をしていたとされるが、これも特別なことではなく、全ての公子がそれぞれ官僚によって法律などの学問を教わっていたと考えるのが妥当である。
さて、五回目の巡幸に出発した始皇帝一行は、雲夢、会稽、之罘、平原津を過ぎて沙丘平台に到る。ここで始皇帝は病が悪化して没するが、丞相李斯、宦官趙高、そして胡亥によってその死は隠された。史記によれば、この際に三者によって、本来次期皇帝に指名されていた扶蘇を自害させ、胡亥を後継ぎとする「偽の勅書」がでっち上げられたとされる。最大の邪魔者であった長男の扶蘇とその部下蒙恬を排除した胡亥は、...